昨日は七曲峠(ななまがり)をとおって秋田県羽後町にある旧長谷山邸に行ってきました。
旧長谷山邸は羽後町田代(うごまちたしろ)地域の旧地主豪農の長谷山家の家を修繕した館で現在は、総合交流促進施設になっています。
蔵の中にある鎌鼬美術館
また鎌鼬(かまいたち)美術館も併設されています。
美術館には秋田県出身で、戦後を代表する舞踏家の一人、土方巽(ひじかた・たつみ)の写真が展示されています。土方巽は昭和40年、9月26日27日、写真家の細江英公とともに羽後町の田代を訪れ、2日間の滞在中に住民と触れあい共に村を舞台にした写真撮影をしました。
土方の田代で撮った代表作「鎌鼬」に因んで、美術館は命名されました。
なお、土方巽の巽の己の部分は閉じているのですが、漢字変換で出てこないのでやむをえずこの字を使います。
私は家族の用事で同伴したのですが、時間はいつでもと言われたので、ふらりと気の向くまま出発しました。
ところが昨日は特に午後から大雨で、それは事前に天気予報で分かっていましたが、私たちは長谷山邸行を決行しました。
というのは取材の意味があったからです。
ならば、いろいろなお天気の日に行ったほうが良かろうということで、決定しました。
悪天候ならば、もしかしたら雲が切れたときに雲の流れを見ることができるかもしれない……
などなど下心がありました。
が、到着後、会う筈の人は午前中にはいらしたが帰られたということで、日をあらためて再訪ということになりました。
それでも昨日は私にとってそれなりに実りがありました。
私の疑問の一つが解決したからです。
私はかねてからこの田代地域さらには延長線上の仙道地域、特に田代の奥の軽井沢地域は落人の里だと聞いていました。
落人といえば源平の戦いあたりのとも聞いていましたが、源氏なのか、平氏の落人なのかはっきりさせたかったのです。
以前、羽後町郷土史を読んだことがありますが、その点ははっきりと書かれていなかったと記憶しています。
雨が小降りになったのを見計らい車から出て長谷山邸に入りました。中には、たまたま秋田羽後五行歌の会代表の菅原弘助さんがおられました。
菅原さんは田代在住の方で長谷山邸の管理のお一人です。菅原さんに長谷山邸の蔵屋敷の中を案内していただきました。
まず五行歌の展示を拝見しました。
長谷山邸の蔵屋敷の2階に上がる広い踊り場に五行歌の作品が展示されていました。
羽後五行歌の会会員と五行歌会誌に掲載されている全国からの五行歌作品を抜粋し昨秋から展示されたとのこと。
そして、「此処に昨11月、五行歌創立者の草壁焔太先生も訪れて五行歌を常設展示することにした」と喜んでいわれました。
草壁焔太先生(向かって右から2人目)と秋田羽後五行歌会員の方々
後ろの写真は土方巽の代表作「鎌鼬」の田代村住民との写真です
「この辺りは豪雪地帯ではあるが、山の中にあるといっても、それほど高い山の中にある訳でもなく、大きな天災にも見舞われないので、昔から落人が住み着いたようだ。
平安時代あたりからかな。
源氏平氏どちらもだと思う。
昔は奥方をたくさん持てたので、負けた貴族武士本人は関東以西に逃げたが、奥方は東北に落ち延びたようだ。
この先の古米沢(こごめざわ)の判官沢(はんがんざわ)というところには源氏の子孫だという家がある。
この邸の長谷山家は江戸時代に下総(今の千葉県)からやってきた比較的新しい家系だ」
などなど盛り沢山に貴重なお話をいただきました。
何せ落人、史実という書物に残すと、命が狙われる危険があるとのことで、古くからの口承のようですが、私の疑問もとりあえずこれで解決しました。
長谷山邸に来たのに、お屋敷の紹介はそこそこになってしまいました。
写真は何枚か撮ってきました。
長谷山邸の渡り廊下
外から見た渡り廊下
3階の大広間
長谷山家は地主であり、また肝入りでもあったので、佐竹藩に
仕えていたとのこと
ガス燈
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こちらは現在、私の他のブログにて連載。
只今、諸事情により休止しています。
いつになるか分かりませんが、出版を予定しております。
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